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6話 紫苑、揺れる《3》

Author: 砂原雑音
last update Last Updated: 2025-05-16 21:15:21

余程、ぼやっとした顔で突っ立っていたのか、一瀬さんが私の顔を見て首を傾げた。

「どうかしましたか? 綾さん」

その声にはっと我に返ると、私は慌てて笑顔を取り繕って背筋を伸ばした。

「大丈夫です! 私、少しずつ閉店の準備をしていくので、雪さんのオーダーをよろしくお願いします」

視界の端で私を見る、雪さんの目が怖かった。

ただ何の意味もなく、見ていただけかもしれない。

多分私が、雪さんを恐れているだけのことだ。

くるりと背を向けて、急いでカウンターの中に逃げ込んで下唇を噛む。

雪さんが店に来るようになってから、私の知らない空気が流れるようになった。

彼女が一瀬さんに近づいて、私の大好きなこの店が自分の居場所じゃなくなるような、そんな気がして、怖くて仕方なかった。

閉店になる、この時間が来るのが怖い。

私のは入れない空気が、店の中に出来上がるから。

後片付けをしながら雪さんのための珈琲を淹れる一瀬さんと、それを一番近くのスツールに腰掛けて眺める雪さんの姿を出来るだけ視界に入れないようにしながら、私は一日の売り上げの数字を取って、レジのお金を数えて。

いつでもレジ締めが出来る様に下準備をして、一瀬さんの閉店の言葉を待った。

「綾さん、そろそろ締めましょうか」

「はい」

言われて店の外に出てプレートをcloseにひっくり返した。

ガラス越しに雪さんのほっそりとした背中を見て、溜息をついた。

誘惑、といった。

あの人は毎日、私達が帰った後で一瀬さんを『誘惑』しているんだ。

あの空気から逃げ出す為に早く帰りたいのか、それともここにとどまりたいのか自分でもわからなくなってきた。

結局、店を閉めた後はいつもよりも早く閉店作業も進んでしまい、一瀬さんに促されて帰路につく。

片山さんはまだ厨房の片づけをしていたし、変に居座って片山さんに送られることになるのも避けたかった。

「はあ……」

知らず溜息をつきながら夜空を眺めた。

今日は少し、月が低くて赤い色をしていた。

赤い月に重なるように街灯があり、その周りを蝙蝠がぱたぱたと飛んでいる。

雪さんの言う「誘惑」も気になるし、片山さんが何か隠そうとしている、私に聞かせたくないらしい話も気になる。

帰りたいのに帰りたくない、どんな話がされているのか知りたい、そんな私の後ろ髪をひくようなことを思い出してしまった。

店に引き返す理由、口実を。

肩に
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  • 君と花を愛でながらー消えない想いを胸に閉じ込め、私はそっと春を待つー   5話 一途なひまわり・後編《5》

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